2026年3月15日日曜日

April Childについて③

 4月になって、嬉しいことと悲しいことが両方あった。


過ぎていく時間に意味なんてないけど、これからの人生をどう生きていくのかを考えざるをえなかった。大雨が降って散った桜、終電をなくして歩いた深夜の玉川上水沿いのことを覚えている。


6月、札幌であったしゃけ音楽会で一緒だったSTUTSに、最近こんなの作ってるんだとトラックのデモを聴かせてみたところ、その場で「自分にミックスをやらせてほしい」と言ってくれた。嬉しかったし、確かにこの曲にはそれが一番自然でふさわしいと思えた。

巡る季節。循環する時間の中で少しずつ変わっていくもの。いなくなった人たちや、失われた場所。もう記憶の中にしかない無数の瞬間を、忘れたくないと願うこと。


そんなあれこれが曲になりました

April Childについて②

年が明けて2025年、一人で家でコツコツ作業する地味な時間が始まった。トラックメイクって何だろう?自分はMIDIとか苦手で、DAWもMTRとしてしかほぼ使ってないような感じなので、リズムパターンをドラムマシン手打ちで打って、ベース弾いて鍵盤弾いてみたいな...結局今までと特に変わらない宅録制作に落ち着いた。めちゃくちゃ時間かかって効率悪い気がするが、それしかないので仕方ない。こういう時バンドメンバーだったり、相談相手がいるとずいぶん気が楽なのだけど。


ソロの曲にサポートメンバー(バンド)を入れるということについて、それはたとえば自分ではカバーしきれない部分を手伝ってもらいたいとか、自分にはないアイデアが欲しいとか、ライブでの再現性の担保などが大きい理由として存在する。けどもっと根本的なことを考えると、そもそも創作の過程で人とコミュニケーションがしたいというのがあるんじゃないだろうかと思う。作りかけの曲を聴いてもらって「へー」とか「ふーん」とかでもリアクションもらえると、「あぁ、じゃあもうちょっとこうしてみたらいいのかな」とか、「ここであの人に音を入れてもらったらもっと世界が広がってよくなるかも!」みたいに次のアイデアにつながっていく、そういうのって創作の喜びだし、ワクワクすることだから。

ソロミュージシャンあるあるな気がするけど(プロデューサーや共作者がいればまた変わるかも)、一人で家でアレンジ考えて歌詞考えてって、まぁだいぶ孤独というか、ひたすら自問自答繰り返してるみたいなところがあり、どうかすると落ち込んだりしてちょっとメンヘラっぽくなっていく。なんか、誰から頼まれたわけでもないのに勝手に始めて勝手に思い悩んで、全然やる必要なんかないことに時間を費やしてるんじゃないかみたいな...バッドなマインドにとらわれそうな時がたくさんある。

キッズだった頃、自分だけが不幸みたいな顔して歌ってるシンガーソングライターとか、ただの自己憐憫というかナルシズム押しつけられてる気がして、好きじゃなかった。辛そうな顔してまでなんでやってんのみたいな。俺は音楽やるなら楽しくやりたいし、さっぱりスポーティーにバンドとかやるでしょ、とか余裕で思っていた。しかし、現実には全然そうはならなかった。今なら気持ちがわかる。一人での曲作りはツラい。一人で生きることがタフであるように。俺は、一人のメンヘラおぢとしての生を噛み締めなければならなくなった。

April Childについて①

 2024年の12月に、丘くんから誘われて名古屋今池のBYでソロライブがあった。久しぶりにサマーオブファン(名古屋のレーベル?DJチーム?イベサー???謎チーム)のみんなに会えるのを楽しみにしながら向かった。

当日会場で、いまや在野の文化人類学徒兼ワインクラブ会員というよくわからんジャンルの人になっているかおりくん a.k.a 顔が、セレクトしたワインを各種出していたのだが、その手伝いとして、毛糸でできたドレッドのカツラを被った(どゆこと?)だいぶファンキーないでたちの男性が来ていた。パーティー好きそうな人だし(偏見)、俺のライブとか哲学しちゃってる雰囲気だからあんまハマらんかもなーとか失礼ながら勝手に思ってしまっていたのだが、いざ始まってみるととても楽しげに聴いていてくれていてなんだか嬉しかった。

イベントが終わって、誰かから「〇〇さん(←毛糸ラスタの人)が、『あの人はトラック作って歌ったらいいと思う!』ってすごい楽しそうに言ってたよ」と伝えられて、「ははは、そっかー」とかてきとうに返していたのだが、実はその感想は自分にとってタイミング的に色々と感じるところがあるものだった。

自分のバンド編成の時にサポートでベース弾いてくれてた池部さんが11月でぬけて、さらにウッシーも2025年からは海外にツアー行きまくり生活になることが決定しており、手伝ってくれていた人たちの人生のもろもろが次のフェーズに突入していく季節が訪れていた。バンドをどうするのかを考え直さなければいけなかった。個人名義になって以降、気兼ねなく頼める友だちに手伝ってもらおうという、ある種ゆるい考えでこれまでなんとなくやって来ていたのだが(自分はいつまでもこういうアマチュア気分が抜けない、というかずっとやってることアマチュアなのだと思う)、年齢を重ねてなのか、それだけではたちゆかないものが現れてきていた。生活とかお金とか。

一人でできることを考えなければいけない、そんな時に投げかけられた謎ラスタマンの言葉は、期せずして自分にとってある種のガイダンスとして響いた。その少し後、実家を訪ねた時に久々聴いたミッシーエリオットのCDがダメ押しとなり、宅録でR&Bでも作るかーという何となくの方向性が自分の中にできあがった。

2025年3月27日木曜日

⑦砂の時間 水の街

 リリースツアーの途中ぐらいに、『Tones』が自分の内面の心象風景みたいなものだとしたら、その次に来るのは自分と、自分が生きている場所についての作品なのかなーと、なんとなく思っていた。とすると、それはこれまでの人生で一番長く過ごしてきた街である東京ということになるのだろう。「ここではないどこか」について曲を作り始めて、「自分のいるここ」に戻ってきたという感じ。結局それってずっと同じところにいたって話だが。
 中1からの東京育ちである俺には、地元意識というほど土地に根ざした感覚はなく、かといって生まれてから小学校卒業までを過ごした静岡には実家もなければ親類もいないので、なんというか消極的なホームタウンとして、東京というものはあった。別にここじゃなきゃいけない理由ってあんまないんだけど、でもまぁ...他に行くとこないしみたいな感じ。だからかはわかんないけど、自分にとっての東京は常にどこか虚無的で、土台のない蜃気楼みたいなものとして写っていて、シティポップみたいな、キラキラした都会の雰囲気みたいなのって個人的にはいまだにあんまりピンとこない(これに関しては世代的な感覚もあるかもしれない、っていうかただ自分が根暗なオタクってだけかも)。東京という街を描写するのに自分から出てくる語彙は、砂とか、水とか、不定形のもので、そこで亡霊みたいなものが行き交ってるっていう世紀末っぽいイメージ。あとはノイズ、混沌。

 そういうこともあって、アルバムに向けて曲を作り始めると、仄暗い感じの曲が多かった。コロナや戦争で、明るく能天気な曲なんて全然リアリティー感じられなかったっていうのもある。ただ、それでも何かしら希望っていうかちょっとした光みたいなものはあって欲しいなと思いながら、制作を進めた。やっぱり俺はAKIRAとか読んでたし、崩壊する世界とそこでたくましく生きる人みたいな、そういう感じのが出ちゃう。
 
 コロナで暇な期間に楽器ばかり触っていたのがアレンジに役立った。サウンド的には、雑味混じりでも人間が魅力だねみたいな、そういうのがいいかなと思った。どうせ東京なんて汚いんだから。
 『Tones』以降サポートしてもらってたバンドメンバー(潮田雄一[Gt]、池部幸太[Ba]、光永渉[Dr]、山本紗織[Fl, Key])のみんなには参加してもらいたいと思った。東京に来て音楽やカルチャーに興味を持ち、やがて自分でもやるようになってたくさんの人と知り合うことができた自分にとっては、東京の音楽には友だちが参加していて欲しかった。でも四人だけかい。まぁそれも趣深い。俺はいつも決まった少人数のメンバーと端っこでコチャコチャ盛り上がってるような暗い学生だったんだし。
 録りまで終わったあとでミックスを誰に頼もうかという話になり、内田直之さんにお願いすることにした。ウッチーさんと一緒にやるのは今回初めてだったけど、なんかもう、ずっと前からとっくに知り合いだったみたいな感じだった。いつもジャケットをお願いしてる我喜屋さんは、このアルバムには絶対これだっていう最高のアートワークを描いてくれた。



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 ここまできて、もうそろそろいいのかなという気がしている。本来砂の時間のセルフライナーノーツとして始めたんだから、もっと内容について書くべきなのかもしれないけど、前回までの6回分を見直しても、基本的に俺は事後的にしか自分のやっていることがわかっていなくて、だいたい過去形でしか記述していない(そもそも人間ってそんなもんだろうか?)。もう少し時間が経ったらまたこのアルバムについて書けることが色々出てくるのかもしれないので、その時にでもまた。

 これまで自分が躍起になってやってきたこと、自分のことばや歌、リズムを探そうとすることに、とっくの前から何か指針を示している(と、俺が勝手にそのように受け止めている、そのように受け止めさせてくれる)人たちがいて、そういう人の音を聴くと泣きそうになる。松竹谷清さんのことばやリズム、宮野裕司さんのサックスの音色に深く心を動かされた時、いつでも自分を肯定してもらったような気持ちだった。きっとその人たちにとっても、先導する松明のように勇気を与えてくれる先人がいたはずである。
 音楽はそれ自体では形のないものだけど、時間や場所を超えて人の心に働きかけうる。そういう時そこには生命が宿っていて、ちょっとした魂のかけらみたいなものを残していく。目には見えない文化的なDNAみたいなものが、影響しあって形を変えてどこかへと飛んでいく。いつかそうやって誰かに出会うかもしれない、その可能性こそが自分にとって何より大事なもので、音楽を続けている一番の理由です。



(終)

2025年3月26日水曜日

⑥響きと空間

 自分の声は、そんなに大きくはりあげなくていいのだ、と思った。もちろん、20代の頃の勢い任せの無防備さもそれはそれで尊いものだったのだろうが、今や自分の持っている身体やことばが一番サウンドする音量で演奏すべきだった。ずいぶん昔、ジョニーグリーンウッドが何かのインタビューで、「日本語の歯擦音の優しい響きが好き。日本に来るとみんなささやいて喋ってるように聞こえる」と言っていたのを思い出す。そして、自分はガットギターで歌うのが自然なのだろうとあらためて思いなおした。初めて自発的に手にとった楽器は実家の押し入れに眠っていたガットギターで、生まれたばかりの小鳥が初めて見た顔を親鳥と思うという話が頭をよぎった。家だけでなく公園やら海辺やら、あちこち持ってまわって弾いているうちに、少しずつ、これは自分かもという音を鳴らせるようになっている気がした。それは、今まで何も考えずにやっていたことをもう一度丁寧にやり直すような道のりだった。

 中心に歌とギターがあって、とにかくシンプルなアレンジ。良い響きがあって、そこに立ち上がる空間に何か気配が宿るような。そんなことを考えながらアルバムの曲を作っていった。また、つたなくてもいいからデモの時点でアレンジをある程度まで自分で完結させるべきだとも思った。アルバムに通底するムードはもうイメージできていたので、参加してもらう人たちに対してそれを示すのは自分の役目だった。デモの曲たちをドキドキしながらZAKさんに送ってみたところ、「すでにいい感じ」と返信が返ってきて、自分の思い描くものが間違っていなかったとホッとしたのを覚えている。

 こうして『Tones』(2019)はできあがった。自分としては良いものができたという手応えがあった。友人の中には「なぜこんなに簡素なアレンジにしたんだ」という意見もあったけど、自分にとってはこうでなければありえなかった。

 名義を変えたことについても、今までの活動がリセットされたみたいになるし損じゃないかと言われたりもして、自分なりの必然性って音楽だけでは伝わらんもんか〜と思ったが(そもそもちゃんと伝えようとするとこれぐらいの膨大な長さになっちゃってるわけで)、それでも感想をもらってるうちに、伝わってる人には伝わってるんだなと実感できた。

 アルバムをライブでやるために、また友人たちを誘ってバンド編成を作り、ツアーにも行った。みんなで演奏すると曲にまた新たな生命が吹きこまれていくようで、自分で作ったものの可能性を信じられて嬉しかった。そしてその頃にはもう、漠然とではあるけど次の作品のイメージは湧いてきていた。

2025年3月25日火曜日

⑤出発

 2016年から2018年にかけては、沖縄と東京を行ったり来たりの二拠点生活をしていた。それは中学で越してきてから当たり前のように過ごしていた東京を、少し離れて俯瞰してみるいい機会で、また単純に沖縄が楽しくもあり、だいぶ浮かれていた。

 滞在する時間が重なっていき、遊びに来る場所というよりも暮らす場所としての沖縄というものが自分の景色に映るにつれて、その明るさと表裏一体のブルースに色々なことを考えざるをえなくなった。貧しさや暴力について。それがいかに人の自尊心を無くしていくのかということ。通り過ぎていく観光客。閉塞感。美しい瞬間。友人たち(みな人と深いところで付き合おうとする気のいい人たちばかりで、会えばいつもとても楽しくて、救われる気持ちになった)。

 いつかの夜、安里のファンファーレで偶然居合わせた石川竜一さんが、どういう文脈だったか「沖縄は力で敵わない相手とどう関わっていくかっていう歴史の土地だから」と言っていたのがとても印象に残っている。それは何か政治的な糾弾というよりもむしろ、そこで暮らしてきた人のリアリズムからくる生活上の実感として発せられた言葉で、確かな強度としなやかさを持って自分の胸に響いた。

 嘉手納から飛ぶ戦闘機の音が発狂するぐらいうるさくて、「マジかよ」と俺がショックを受けていた時、一緒にいた友人たちはただ黙っていた。そんなことは日々の中でとっくにわかりきっていることで、彼らからしたら何を今さらということだったのだと思う。その沈黙の向こうにある怒りや悲しみ、もっと長い年月の間に折り重なった集合的で複雑な感情に触れるためには、その言葉のない時間をただ尊重するしかなかった。そもそも自分は「力を持った」側からやって来た人間であって、少し社会科見学したぐらいでは埋めようがない経験の質感の差がそこに横たわっているのを実感した。

 那覇と国立を往復しながらノートに書いていたごちゃごちゃしたメモは、この追いつけない暗闇の空間と、それでも好きな人たちと同じ時間を生きたいと思う、根本的な矛盾の表現だった。それはつまり、Iに対するYouのことだったのではないかと今となっては感じる。自分の言葉がどこかに向かう時、それは誰か特定の人や集団を動かすためのものではなく(そうなると商品コピーやスローガン、メッセージではあっても、詩ではない)、ただ他者に対して開かれていたいということ。わかりあえなさを認めることの先にしか、尊重はないのではないかということ。わかりあうことが前提の態度は、全体主義っぽくて怖い。社会を抜きに人は生きられないが、その中の個人の声はいつでも容易にかき消されてしまうほどささやかである。どちらの家にも坂を登って帰った。一人の夜道は音楽を聴きながら歩いた。そうして、いずれどちらの街で暮らしていくのかを決めなければいけなかった。

 ある種の親密さと、その前に口を開ける黒々とした断絶、そこに投げかけるもの。SMOKEで、FUKUSUKEで、あれこれ話したことが自分の中のことばとなり、曲になっていった。

 

 

2025年3月22日土曜日

④森に帰れ

 ソロアルバムに向けて動き出そうとしていた矢先、STUTSと一緒にEPを作る話がくる。これは自分にとって結構意外で、それまで数曲一緒にコラボしてはいたけど、一枚まるっとやるのはあんまり想像していなかったから正直驚いた。ただタイミング的にはよかったというか、それまでの活動をいったん立ち止まって次に行こうとする、ちょうど狭間の時期だったので、気分転換というと言葉悪いけど、こんな機会もなかなかなさそうだしいっちょやってみるかという軽やかな気持ちで取り組むことができた。共作ってことで責任も半分だし。名義をどうするかは一瞬悩んだけど、ここで変えてもなんか、と思い結局そのままABSにすることにした。

 これまで書いたように、自分はリズムやグルーヴ、言葉においてのフロウづくりを個人テーマとしてずっとこねくり回してきていたから、ヒップホップとは全然関係ないところの人間だけど音楽としては何かしらやれるだろうと直感できた。ある意味、ここで初めて俺はプレイヤー(ボーカリスト)としての立場で音楽に関わる経験をしている。自分がそれまで格闘してきたことは、大げさな言い方をすると、自分の実存と切り離せないようないびつ且つ不条理な何かで、どこに辿り着くのかもわからない獣道そのもの(a.k.a 人生)だったが、この作品に関しては、目の前の音楽に対して自分が何をやれるのか、というシンプルな問いに最大限応える、そういった風通しのいいマインドで臨むべきものだった。

 楽器弾いたりトラックメイクにも少しは関わっているけど、ほぼボーカルに集中するような環境で制作は進み、実際やってみるとこれはとても奥が深いもので、歌でグルーヴや展開を作ること、発声やタイミングをどうコントロールするかという繊細な領域に思い至るのは、この時の経験があったことが大きい。もっというと、近くでSTUTSのトラックメイクを見ていてDAWってこう使うんかーというのも多少学びになった気がする(まぁ編集早すぎて何やってるかほとんどわかんなかったし、参考程度だけど...)。

 リリース時の取材で「なぜ二人でやろうと思ったんですか?」っていう質問を毎度のようにされて、そりゃあまぁ、人気ラッパーたちとも親交深く当時明らかグイグイきてるHIPHOPプロデューサーが、なんでこんなどこからきたのかもよくわからんボンクラと...ってなるのは当然だったと思う。しかもその質問に対して二人雁首そろえて「グルーヴがあうから」としか毎回答えてなくてヤバかったが、でもそれは本当のことではあって、グルーヴとかスイングの振り子の幅の感覚ってそんなに誰とでもバチっとあうものじゃないから、それだけで自分にとっては一緒にやる大きな理由になっていた。向こうからも今でも折りに触れて誘ってくれるのは、やっぱりはっきり音楽が理由だと思うし。

 それでも、おそらくこれは二人とも、ABS+STUTSというものをパーマネントなユニットにしたりするつもりは最初からなかったはずで、STUTSは明らかにヒップホップの人でヒップホップをやることに軸足があったが、俺はそれは全然違っていて、やがてそれぞれの持ち場に帰ることはなんとなく約束されていた。そうして俺はまた、暗い森の道なき道へとのそのそ戻っていった。