2025年3月18日火曜日

①わたしのことばを歌う

  2016年にそれまでのトリオ編成での活動をストップしたとき、もうAlfred Beach Sandalという名前はいったん使うのをやめようと思った。


 そもそも、なぜこんな長ったらしい名前を冠にしたのかといえば、それはやはりIではなくてTheyとして音楽活動したかったから、ということだったのだと思う。シンプルにバンドへの憧れがずっとあったし(学生時代に組んでいたバンドは俺のやる気だけが先走っているような状態で、足並み揃わぬまま空中分解した)、もっと言うと、ソロでシンガーソングライター的に活動するにしても、自分にはそもそも歌いたいことなどない、という気持ちが強く、それは結構な問題だった。

 当初から、自分の中では「歌を歌える」ということと「ボーカルをとれる」ということは明確に意味が違っていて、それは単にピッチ外さないとか、あるいは声質がどうとかいうこととはあまり関係がなく、さらにはシングしているかシャウトしているか、はたまたラップしているのかというようなスタイル上の違いということでもなかった。

 その違いとは、なんというか、その人の中にその人自身の歌われるべきことばがあるかどうか、というようなことで、これはほんとうに、ある人にはあるが、ない人にはない、ある種のギフトのようなものなのだという考えが、自分の中にはずっとあった。簡単に踏み込んではいけない、広く深い海のようなもの。軽い気持ちで触れると死ぬぞみたいな、畏怖を感じていた。なので、雰囲気だけの歌詞を並べた弾き語りミュージシャンをライブハウスで見かけるたびに、「あんた、そんなことしてると危ないぞ」と密かに心の中で警告した。

 誤解してほしくないのは、「歌が歌える」人がボーカルじゃないとダメということでは全くないということで、たとえば声も楽器の一部としてアンサンブルを作るようなスタイルの曲で素晴らしいものはたくさんあって、そういう曲では歌が存在感ありすぎると逆にうまくいかなかったりすると思うし、要は何を軸にその音楽を組み立てるかということである。アレンジにおいて他のパートでその曲の重要な部分を表現できていれば、ボーカルの役割はシンプルなほうがよいということは全然ありうる。当たり前なことのようだけど。

 ただそれでも、音楽的なバックボーンがない自分にとっては、音楽に近づくための道筋の中で最も可能性的にマシそうに思えたのが「ことば」や「声」ではあって、楽器を頑張ったり、あるいはもうちょい音響的に曲を組み立てる方向(サンプリングなりなんなり)を頑張ったりというのも、真面目にやればできたのかもしれないけど怠惰ゆえやらず、一番フィジカルに直結してるしなじみやすいような気がして(アナログ人間)、ボーカルというものを手がかりに音楽の海に分け入っていくことを選んだのだった。10代の頃からカセットテープのMTRで宅録をしていて、ノイズやコラージュの真似事みたいなものをあれこれ作ってみていたが、結局のところ何かしら「曲」として形になったように思えたのは、それが歌ではない叫びやセリフであれ、何かしらの声が入っているものがほとんどだった、という経験も大きかったと思う。ボーカルのある音楽をやろう。が、何を歌ったらいいのか。というかそもそも、自分の中に歌うことばはあるのか。その問いは樹齢100年のでっかい木みたいな存在感で屹立していた。

 自分がボーカルとギターやる(しかない)けど、バンドはなく(友だちいない)、トラック作る気概もなく(機械苦手)、歌いたいことも特にない、けど音楽やりたい、というあれやこれやの総合の中で、「一人だけど一人じゃない、不定形のソロプロジェクト」というものをとりあえず設定することで、自分の心の置き所ができるように思えた。

 言ってみれば、人(ニン)がないから設定で勝負、みたいなある種の苦肉の策だったのだと思う。

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