2025年3月25日火曜日

⑤出発

 2016年から2018年にかけては、沖縄と東京を行ったり来たりの二拠点生活をしていた。それは中学で越してきてから当たり前のように過ごしていた東京を、少し離れて俯瞰してみるいい機会で、また単純に沖縄が楽しくもあり、だいぶ浮かれていた。

 滞在する時間が重なっていき、遊びに来る場所というよりも暮らす場所としての沖縄というものが自分の景色に映るにつれて、その明るさと表裏一体のブルースに色々なことを考えざるをえなくなった。貧しさや暴力について。それがいかに人の自尊心を無くしていくのかということ。通り過ぎていく観光客。閉塞感。美しい瞬間。友人たち(みな人と深いところで付き合おうとする気のいい人たちばかりで、会えばいつもとても楽しくて、救われる気持ちになった)。

 いつかの夜、安里のファンファーレで偶然居合わせた石川竜一さんが、どういう文脈だったか「沖縄は力で敵わない相手とどう関わっていくかっていう歴史の土地だから」と言っていたのがとても印象に残っている。それは何か政治的な糾弾というよりもむしろ、そこで暮らしてきた人のリアリズムからくる生活上の実感として発せられた言葉で、確かな強度としなやかさを持って自分の胸に響いた。

 嘉手納から飛ぶ戦闘機の音が発狂するぐらいうるさくて、「マジかよ」と俺がショックを受けていた時、一緒にいた友人たちはただ黙っていた。そんなことは日々の中でとっくにわかりきっていることで、彼らからしたら何を今さらということだったのだと思う。その沈黙の向こうにある怒りや悲しみ、もっと長い年月の間に折り重なった集合的で複雑な感情に触れるためには、その言葉のない時間をただ尊重するしかなかった。そもそも自分は「力を持った」側からやって来た人間であって、少し社会科見学したぐらいでは埋めようがない経験の質感の差がそこに横たわっているのを実感した。

 那覇と国立を往復しながらノートに書いていたごちゃごちゃしたメモは、この追いつけない暗闇の空間と、それでも好きな人たちと同じ時間を生きたいと思う、根本的な矛盾の表現だった。それはつまり、Iに対するYouのことだったのではないかと今となっては感じる。自分の言葉がどこかに向かう時、それは誰か特定の人や集団を動かすためのものではなく(そうなると商品コピーやスローガン、メッセージではあっても、詩ではない)、ただ他者に対して開かれていたいということ。わかりあえなさを認めることの先にしか、尊重はないのではないかということ。わかりあうことが前提の態度は、全体主義っぽくて怖い。社会を抜きに人は生きられないが、その中の個人の声はいつでも容易にかき消されてしまうほどささやかである。どちらの家にも坂を登って帰った。一人の夜道は音楽を聴きながら歩いた。そうして、いずれどちらの街で暮らしていくのかを決めなければいけなかった。

 ある種の親密さと、その前に口を開ける黒々とした断絶、そこに投げかけるもの。SMOKEで、FUKUSUKEで、あれこれ話したことが自分の中のことばとなり、曲になっていった。

 

 

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