自分の中には歌うことばはともかく、どうかして捻出したいリズムやグルーヴはなにかしらあるようだった。ただそれは俺個人の生体リズムみたいなものだったので、人と一緒に演奏する段になってどうしたらいいのかよくわからなくなる。自分でも自分が何やってるか説明できないのに、人と合わせるとか無茶な話なのだ。
ビーフハート&マジックバンドよろしく体で覚えて共有するまで徹底的に合わせるみたいなことができればよかったかもしれないが、そんなの無理で、結局サポートで参加してもらってる人たちに自分の音楽を解釈してもらってどうにかバンドサウンドにしていこうっていうだいぶ他力本願な形でバンド(?)スタイルのABSは進んでいく。今思えば丸投げにも程があった気がするが、周りの人たちはみんな優しかったのでありがたかった。ぶちぎれてた人もいたのかもしれないけど。もしそうだったらすみませんでした。
そもそも自分は合奏の経験が乏しく、アンサンブルの意味がまじであんまりわかってなかった。人が集まってせーので音を出したらサイコーになっちゃうと思っている坊やだった。そんなわたくしに、みんな「こいつは果たして何をやろうとしてるんだ」と真剣かつ丁寧に接してくれていて、そうやって実地で人と音を出すことを重ねて、ようやく少しずつ自分のやってることを理解していく、そういう贅沢な青空音楽学級の時間を過ごしていた。
2012年ぐらいから岩見継吾(Ba)、光永渉(Dr)とのトリオにメンバーが落ち着いて、歯車が噛み合った感じがあった。二人とも、自分みたいな思いつきを具現化してるだけの素人音楽野郎とは違い、明確にプレイヤーでありミュージシャンだったので、ごちゃごちゃした素描みたいな曲でも解釈するのが早かった。特にリズムについてはっきりした見解を示してくれることが大きかったと思う。例のごとくただただ体の反応で作った「キャンピングカーイズデッド」という曲が、8分の6拍子だとわかった時、自分がそれまでちょこちょこ作っていたシャッフルの曲の中にもハチロクのフレーズを知らず知らず入れていることに気づき、勘でやっていたことの中に構造が見出されていくような痛快な感覚を覚えた。言ってみればそれは、リズムにおける自分の文体みたいなものを自覚することであり、ただの手癖だったものを手法の一つとして認識し直す機会だった。
人と関わることで自分について知っていく、その過程は成長できているようで喜ばしいものだったけど、一方で、自分の作る曲の中に時折TheyじゃなくIが現れるようになっていることにも気づく。バンド編成での活動を重ねる中で、Iが顔を出す頻度もどんどん高くなっていくようで、そのことはわかっていながらもなんとなく気にせずにやっていたのだけど、『Unknown Moments』(2015)制作の最後の最後に「Swallow」という曲ができて、いよいよ無視できなくなってしまった。この曲はもはやIがmy own wordsでsingしてるとしか思えず、ソロプロジェクトも何もなかったのだ。何かに対して観念する気持ちが湧いた。なんというか、自分が結局自分でしかないみたいなことに。よくよく考えてみると、ソロプロジェクトとしてのAlfred Beach Sandalだったはずなのに、友人たちはみんな最初から俺個人のことをビーサンと呼んでいて、その時点でもう寸法があっていなかった。小山田さんのことを誰も「コーネリさん」とか呼ばない。俺は最初から、自分で作った設定を貫徹できるようなコンセプチャルな人間ではなかったのだ。
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